全国大学高専教職員組合(全大教)声明(2016年12月26日)

声明:軍事目的のための研究を大学に行わせる政策に反対し、すべての大学・大学人が学問の自由を擁護する立場から議論し行動することを呼びかける

2016年12月26日 全国大学高専教職員組合中央執行委員会

 2015年度に防衛装備庁による安全保障技術研究推進制度がスタートし、それを一つのきっかけとして、大学において軍事目的のための研究を行うことや学術界が軍事と結びついて研究を行うことの是非をめぐり議論が起こっている。
 防衛装備庁によるこの制度は、2015年度に年間予算3億円の規模であったが、2016年度にはその2倍の6億円に増額され、2017年度政府案では110億円が計上されている。この制度への大学からの応募は2015年度58件、2016年度23件、大学における採択はそれぞれ4件、5件であった。大学からのものを含む応募件数は、2015年度は109件から2016年度44件と大幅に減少しているにも関わらず、2017年度政府予算案は2016年度予算の20倍近い大幅増額である。
 この制度以外にも、防衛省等との共同研究や米軍からの研究助成、軍事研究を行う企業との共同研究等、大学への軍事研究の浸透の傾向は強まっていると考えざるをえない。
 今般のこうした大学等における軍事研究促進の動きは、武器輸出三原則の事実上撤廃、特定秘密保護法、安全保障関連法の強行実施など、日本国憲法の基本原理に基づく平和主義を全面的に骨抜きにしようとする動きと軌を一にしたものであり、その一環として位置づけられているとみることができる。

 日本の学術界、大学には、第2次世界大戦期に、東京帝国大学に造兵学科を擁する第二工学部が設置されたこと、京都帝国大学でも海軍からの委託によって原子爆弾開発のための研究が行われたことに象徴されるように、軍との密接な関係のもとで戦争遂行に積極的に関わった歴史がある。こうしたことへの反省にもとづき、日本学術会議が1950年 および1967年 の二度の声明で、戦争を目的とする科学研究を行わないことを表明し、今日まで、それを堅持してきた。わたしたち全大教も、この点については同一の姿勢をとってきた 。

 わたしたちは、安全保障技術研究推進制度に代表される軍事目的の政府資金が大学に流入し、大学において軍事技術研究が行われることは、次の点で大学での教育と研究を歪め、学問の自由を損なう結果を招くと考える。
 第一に、大学で学ぶ学生にとってみると、指導を受けるために所属した研究室、指導教員が軍事研究を行っている場合、自らの思想信条に反する場合であっても、必然的に軍事研究の一翼を担う立場に立たされてしまう。そしてその苦悩を一生背負わされることになる。このようなことは、個々の学生を含む大学人の思想良心の自由はもちろん、その上に特に学問の自由が保障されるべき大学においては、あってはならないことである。
 二点目は、大学のもつべき国際性に反することとなる点である。大学は国際的学術コミュニティの一部であり、専門分野ごとの先端の研究成果を発信し、世界の研究者と交流することよって、世界に貢献する。グローバル化する世界にあって、大学のもつこうした国際性はますます必須のものとなっている。国際的学術交流によって鍛えられ育まれた知がなければ、大学の国内への貢献もなしえない。大学が、一国家の安全保障のための軍事技術の開発に携わるということは、大学の国際性に制約をもたらし、対外的秘密主義を学術研究にもたらす。これは、研究者の交流を制限するだけでなく、留学生の往来を阻害し、在籍する留学生の研究活動の制約につながることも起こりうる。
 三点目は、研究成果の公表の問題である。大学での研究成果は国民および世界の人類の福祉のために広く公開されるべきものであり、そのことは学問の自由の根幹でもある。こうした公開の原則が担保されることが、一国に閉じることなく国際平和に寄与するべき大学のあり方であるし、国民の支援のもとで発展する大学としてふさわしい。その性格上秘密主義がまとわりつき、成果の公開性、透明性に制限がかかる軍事研究とは相容れない。

 大学において軍事研究を行うか否かという問題は、科学者・研究者個人の判断にのみ委ねるべき問題ではない。学問の自由の保障は個人の基本的人権であると同時に、大学自治を通じてそれを組織的・制度的に守っていくべき機関としての大学に課せられた使命でもあるからである。したがって大学は、大学自治の枠組みで、学内の民主的な議論を経て、軍事研究に関する立場を決定すべきである。その際、上述した国際性、公開性などの大学の最も基本的なあり方を十分に考慮に入れ、人類の福祉の向上に資する研究とそれに立脚した教育を行う機関であり続けることを明確に打ち出し、それを実践すべきである。

 軍事研究に関する議論の中には、「防衛のための技術・装備・兵器」と「攻撃のための技術・装備・兵器」に区分し、前者について大学での研究を許容するべき、あるいは推奨されるべきものとする意見がある。しかしながら、わたしたちは、近代以降のあらゆる戦争が「防衛」の名のもとに始まり、繰り広げられたことを直視すべきである。さらに、防衛のための装備・兵器と攻撃のための装備・兵器には本質的な区別はなく、どちらも他者を傷つけ、その命を奪うことを窮極的な目的としている。したがって、「防衛のための」軍事研究は許容されるべきとする議論は、全面的な軍事研究への道を開くものでしかなく、首肯できるものではない。

 知識や技術に国境がないのと同様、現在のさまざまな知識や技術は、軍用にも民生用にも活用できるデュアル・ユース技術であるという一面を持っている。その側面を強調して、軍装備品の開発は民生を通して国民生活を豊かにするものでもある、というキャンペーンが行われている。この議論は、民生目的の研究を軍事に利用するスピンオンと軍事目的に技術を開発していく中で一部が民生にも利用できるようになるスピンオフを意図的に同一視し、軍事目的技術開発へと誘導するものである。
 今回の安全保障技術研究推進制度も、デュアル・ユース技術や軍装備品にすぐに結びつくわけではない基礎研究に関する委託事業という側面が強調され、多額の(2017年度政府予算案では110億円)研究費用を大学に投入することが正当化されている。一方で、国立大学の運営費交付金は削減され、基盤的な研究経費は減少の一途をたどっている。こうした一連の政策展開からは、研究者が自由な発想で良心にもとづき研究活動を展開することで将来社会に貢献する可能性を秘めた本来の学術研究の道を狭めつつ、将来的に計画しているものも含めた軍装備品の開発に距離の近い研究だけを促進していこうとする姿勢があらわであると批判せざるを得ない。さらに言えば、デュアル・ユース技術対象、基礎研究対象の研究費が、防衛装備庁から支出される防衛予算である必然性はまったくない。文教予算の枠内で計上すれば事足りる。この点からみても、安全保障技術研究推進制度はやはり、軍装備品に特化した技術開発を研究者に要求するものと考えるべきであり、デュアル・ユースを強調する姿勢は隠れ蓑であると言わざるをえない。

 政府は、公的研究資金の配分にあたって、大学での研究を軍装備品開発の方向へ誘導する政策をとることをやめ、文部科学省は、大学の本来の役割が果たせるよう、基盤的経費、基盤研究費を充分に準備すべきである。
また、政府および文部科学省は、大学及び学術界がその国際性、公開性を最大限に発揮することで国際協力、国際連帯に資することができるよう、学術研究、学術コミュニティの国際交流を深化させる取り組みへの支援こそ行うべきであり、それを求める。

 冒頭に述べたとおり、日本の学術の代表機関である日本学術会議は、戦後、二度の声明をとおし、日本の学術界が、戦争を目的とする科学研究に加担しない決意を明確にしてきた。このことが、平和国家としての日本のあり方を支え、その中での学術研究のあり方を規定してきた。わたしたちはこのことを高く評価し、日本学術会議が今後ともその姿勢を堅持すべきであると考える。

 また、日本の学術界として国際平和に向け、軍事産業、軍事技術・装備・兵器の開発・生産などの軍事側面ではなく、国際政治・経済、貧困問題の解決、移民問題の解決等による国際関係の包括的解決に向け行動するべきである。日本の学術界全体として、また個々の科学者・研究者として、それぞれの国際交流を通して、世界の学術コミュニティ全体が、こうした方向での行動を行うよう働きかけるべきである。

 大学は、大学において軍事目的のための研究を行うことの是非、これに関連する外部資金の受け入れの是非等について、学問の自由の保障に責任を負うべき機関としての立場から、大学内で徹底的な民主的議論を行うべきである。
 すべての大学人に対して、社会において大学が果たすべき使命の観点に立って、軍事目的のための研究を行うことの是非を考え、良心にもとづき民主的な議論に参加することを呼びかける。
わたしたち全大教は、大学の自治にもとづき、民主的な議論のもとで、大学が今後とも軍事目的のための研究を行わないことを決定・宣言し、実践することを求め、そのために運動する。